想い出話
加部 康晴
<其の九>
「かなり昔に遡って」
実は、またまた「会費制リーグ戦」の話になってしまうが、あの鈴木英春さんと横山公望さん、そして
2003年度(あ〜、もう3年近くになってしまったのか〜)「将棋サロン杜の都」が「全国道場対抗戦優勝」を果たした陰の立役者、
今藤英世君(私にとっては弟々子のような関係)も特別参加したことがあった。
すでにこれまでの常連メンバーに加わっての顔ぶれとなったわけだ。今考えても恐ろしいメンバーであった。
まず、ヨコハマコーボーこと横山公望さんについて触れてみたい。
公望さんは奨励会時代の先輩。人柄をひと口で評すれば、2歳先輩にも関わらず、決して先輩風を吹かさないどころか、
後輩の私にも絶えず気を遣ってくれる、真から優しい人。私が「杜の都」を始める2年先に、「禁煙道場ハマコーボー」を興し、
色々アドバイスしてくれたことは忘れられない。なかでも、「加部君、悪いこと言わないから、将棋道場なんて止めたほうがいいよ。」と
心から助言してくれた。その時、「横山さんの真意十分理解しています。でも、もう決めてしまったので・・。」
私の決意を知ってか、公望さんは先程の前言からうって変わって、「あっ、そうなの。じゃー頑張ってやるしかないね。
何かあったら言ってきて。」そして、「お互いガンバロー!」その言葉にどれだけ勇気つけられたか...。
そして公望さんといえば、「アマ竜王2期」をはじめとする全国優勝数回以上の凄い選手実績。
そして当初まったく微塵もみせなかった類稀な文才。そのベールを脱いだのが、ヨコハマコーボーとしての
「将棋ジャーナル」における自戦記、観戦記、随筆等々。そしてユニークな戦術書として大いに受けた代表作「メリケン向飛車」。
選手、書き手、道場経営経験と、私にとっても似たような歩みをした心強き先輩でもある。
さて、先般久し振りに横山公望さんの筆が世間に出た。これは週刊将棋「対COM戦」自戦記。相変わらず読ませてくれました。
今回の人選であった、かつてのトップアマ選手(若手の細川君を除いて)を評し、「あのアイドルは今」とは、まさしく言い得て妙。
そして対戦したKCC将棋を「缶コーヒーのメーカーみたいな...」とは笑わせてくれる。更に、「世界コンピュータ選手権で、
準優勝に輝いたソフト様であらせられることを知った。はっはー、恐れ多いことで。」略して「K様」とし、「その家来、
じゃなかった、操作係の青年と役員風中年が着席しております。」という描写には、当事者も苦笑したことだろう。
そして末文が、「蘇る53歳。アマ強豪に定年はない...。ああ、こうしてまた、ワタシはダメになっていくのネ。」で
締めくくる。もうここまで来れば、ユニークを通り越す見事の一語。先輩承知で失礼ながら、
ヨコハマコーボーの才能ここにもあり!である。
つづいて真打の大先輩、鈴木英春さん。英春さんとは永い付き合いになる。私が6級で奨励会に入った時、すでに三段。
むろん当時は雲の上の存在であった。私の記憶では、英春さんは2度、四段昇段の一番があったと思う。
結局、奨励会生活15年、うち三段13年。それは経験したもの以外到底知り得ない葛藤であったはず。
しかしながら、英春さんの底知れぬ明るさは、壮絶な苦悩を超越した人間だからこそのものなのだろう、と思う。
アマ棋界復帰後の英春さんは、[アマ王将]はじめ多くのビッグタイトルに就き、特に英春流の著作シリーズは有名。
確か7年前くらいに金沢へ移住。当初はかなり苦労されたようだが、今では「晩成塾」という子供教室を見事確立され、
後進普及に貢献されている。
よくよく考えてみれば、英春さん、公望さん、私達の生き様は、選手として一世風靡した時期もあり、
そして道場/教室を見出し、何故か共通項に連鎖されているような気がする。
あの頃は、他にも面白い先輩が大勢いた。なかでも一番世話になったのが有野さん(引退棋士六段)。
そして“金ちゃん”の愛称で当時の奨励会を有野さんと仕切っていた椎橋さん(引退棋士六段)には、
奨励会に入りたての頃「君、挨拶しなきゃダメだよ」とよく言われたことを憶えている。
間違いなく入室時に挨拶はしていたつもりだったが、どうも全体の他に、椎橋さんには直接丁重なる挨拶を
しなくてはならなかったらしい。その後必ず、「君は新米で分からないだろうけど、こうして先輩が何人かいる時はね、
お茶入れなきゃダメだよ。そして灰皿ね。あ〜ダメダメ、お茶っ葉入替えなきゃ。それと灰皿も
“気もち”水浮かべるものだよ。あー、それじゃー入れ過ぎだよ。気も〜ち、だよ。そうそう、気もちね。
こういったことも修業だからね。」とにかく、「気もち」とか訳のわからないことを言うやかましい先輩だなー、
が第一印象であった。しかし、そのお陰で色々身についたことは後になって有難かった。
後年、椎橋さんのご自宅へ遊びに行った際、「将棋教えてください」とお願いした時の次なる言葉に驚いた。
「将棋かい?う〜ん、折角だから指してもいいけどね、実は将棋盤がないのよ・・・。」
将棋指しが盤(おそらく駒も?)がない...。流石に凄い先輩だなー、と感動してしまった。
菊池さん(現 七段)にもよく教わった。昔の将棋会館(現在の前の建物)には、娯楽室という溜り場の部屋があった。
菊池さんはよくその部屋で暇そうにしていた。顔を見るなり「1局教えてください!」というと、快く指してくれた。
「加部君の将棋は手厚いね。でも、もう少し軽いほうがいいんじゃない?スジがね。」そして誰かが傍で観ていると、
自分が指した一手をさして、「スジだった?」と、とりあえず訊くことが多かった。いつだったか、それを真似して
「スジだった?」とやったら、ムッとされてしまった・・・。
「何局か教わっているうちに、マンちゃん(菊池さんのあだ名)そろそろ行くよ!」と、椎橋さんあたりから誘いの声が掛かる。
「加部君、じゃーこの一局で終わりにするよ。これから“お仕事”があるから。」一体仕事ってなんだろう?と、
他の先輩に訊くと、「あ〜、チャリンコかお舟じゃない?それとも動物園かもね。」まだ子供だった私は「???」だったが、
そのうち、競輪・競艇・競馬ということが分かった。まだ皆十、二十代の初めなのに、
凄い世界だなー、感心したことを憶えている。
野藤さん、都橋さん、野口さん、黒崎さん(当時 1〜3級)にもよく指してもらった。とにかく先輩上位者とみれば、
「教えてください」と進んで盤に相対したもの。当時は1局100〜200円で教わるのが暗黙のルールであった。
記録料が1,000円くらいの時代であったから、昼夕食事代の残りは殆ど“指導料”として先輩に献上したものだ。
おかげで随分鍛えられ力を付けさせてもらった。よく野藤さんには、「君強いねー。」なんて言われながら、
かなりの指導料を払わせてもらったもの。そのあたりは当時から変わらない。そして、「悪いけど一応先輩だからね、
熱いお茶一杯いれてくれない?それと、分かってると思うけど、新しいお茶っ葉にしてね。その代わり
後でコーラ奢ってやるからね。」そして暫くすると、「加部君、そろそろ冷た〜いコーラ飲みたいね。お金はあるから。
あれ?いつの間にか増えてるよ!(笑)じゃーこれで何本か頼むね、冷たいのね〜。」こうして当初は自分の払った指導料で
しょっちゅうコーラばかり買いに行かされたものだった。でも、こうして指してもらえることが嬉しかった。
さて、いよいよ英春さんの本格登場である。英春さんにも随分指してもらった。「お茶とか灰皿」とかはなかったが、
そのかえし黙って指すことは稀で、終始面白いことの連発で集中力維持が大変であった。
尚、英春さんの名誉のために前置きすれば、あくまでこれは「練習将棋」のような、半ば遊び時におけるもの。
それは奨励会→アマ棋界に転身してからもまったく変わらない。
まず英春流の代表作である「かまいたち」戦法は余りにも有名。“オーシンツクツク、オーシンツクツク”と
セミを模しながら指し進める「つくつくボウシ」戦法も画期的な序盤指向であった。また、
飛車が同筋に移動し合うパターンを「磁石飛車」という。この場合、飛車を横滑りさせて磁石を模して指すことがポイント。
「おいしい、おいしい、いただきま〜す!」なんて言いながら、駒を次から次と取る仕草を誇張させて、
「こまとり姉妹!」と喜び、相手をアツクさせる指し口。入玉確定の瞬間、寄せをしくじった相手を更にアツクさせる
「月が〜出た出〜た〜♪」と駒音を音頭に鼻歌まじりで敵陣深く玉を進める。これを「入玉炭鉱の悲劇」という。
終盤での待ち駒を着手した瞬間、「ワタシ待〜つわ♪いつまでも待〜つわ♪」と相手を笑わせて戦意喪失させてしまう。
敵陣に一挙殺到する時に、「おじさんはネ、おじさんはネ、うふふふふ」なんて言いながら、わざとそーっと指す。
そして大優勢の終盤戦を喜びすぎての逆転負けを「発作」と評する。
とにかく英春さんと盤を交えると、いつもこうしたギャグの連発で笑わせられ、将棋にならなくなることが常であった。
鈴木英春さん、横山公望さん、野藤鳳憂さん、都橋政司さん、黒崎昌一さん、私にとっては今でも良き先輩である。
次回へつづく/最終章へ