想い出話
加部 康晴
<其の三>
「母のこと」
白石での3年目、33歳を迎えた。
会社では東京本社に激動が走り、結局、そのドタバタで、当初条件であった出向3年で東京へ戻れる可能性が立ち消えてしまった。
どうしても戻りたいなら会社を辞めるしかない。だが、見知らぬ土地で頑張った3年の苦労を無為には出来ず、
迷わず白石の事業所へ根を降ろすことに決めた。必然生活の基盤も白石となり、実質、生まれ育った東京との快別ともいえた。
その旨を東京の母へ伝えると、「それじゃー、東京へは戻って来ないの?」と、ある程度予想していたものの、
滅多感情を出さなかった母だっただけに、暫く耳に残った。
そして後に思えば、この時既に、母の身に何かしらの兆しがあったのだろうと...。
その後のある日、突然東京の長姉から、母が入院したとの連絡を受けた。
そして、「落着いて訊いて。」と前置きの後、既に肺癌から脳腫瘍に転移し、余命半年であると、
一瞬耳を疑った。何かの間違いだろ!筆舌し難いショックと同時に、
こんなことになるなら、東京を離れるのではなかった、と...。
翌日早暁、クルマを飛ばして母の入院する東京の国立病院へ向かう。一刻も早く顔を見たかった。
家族共々担当医から説明を受け、病状が紛れもない事実だと知ると身体中の震えが止まらなかった。
むろん母はそれを知らない。病室へ入ると母は私の顔を見るなり、
「大したことなかったのに、遠いのだからわざわざ来ることなかったのに。」と、それでも嬉しそうな表情を見せてくれた。
母には万が一にも癌ということを微塵も悟らせるわけにはいかない。父、姉達は努めて明るく振舞っていた。
久し振りの家族全員がこんな形で会すようになるとは、何より母親の横顔を見る度に、涙を堪えるのが精一杯であった。
白石に戻ると仕事にも集中を欠き、時折上司や同僚からも心配されたが、母親の病状について触れるわけにはいかず、
平静を装う日々であった。余命半年の間に出来ることは、土日の休み、母の顔を見る為に女房共々白石−東京の往復しかなかった。
それでも毎週顔を見たくとも、母に勘ぐられてはならないと、あえて断腸の思いで間隔を空けての東京行きであった。
病室の母のもとには正味1日の時間しか叶わない。日曜日の夕刻には病室を出て白石へ戻らなければならず、
母に「じゃー帰るよ。また来るからね。」と言うと、
母は寂しそうに「そんな無理することないよ。それより事故でもあったら大変だから。」と、そんな別れ際が何より辛かった。
幾度も一度出た病室の傍へコッソリ戻っては、遠くからでも母の姿を目に焼き付けておきたかった。
帰りは母の顔が浮かぶたびに涙が止まらず、後髪をひかれる思いで東京を後にした。
母は仕事の関係もあって、普段殆ど和服で通していたが、見た目も40代後半にしか見えず、
年齢より10歳くらい若い感じだった。それと江戸ッ子らしく、言葉の切れも良かった人だけに、
より若い印象を与えていたのかもしれない。そんな母とも残り僅かを思うと、このまま傍にいたかった。
せめてもは女房が母の傍にいてくれることが救いであった。
4月桜満開の頃、母が病院から家への外出許可が与えられ、母を囲んで家族全員が1日愉しい時間を過ごした。
これが最後だと思うと刹那さは隠せない。母が「やっぱり家が一番いいね。でも一度は戻れて良かった。」
それを訊いて、母は余命幾ばくもないことを悟っているのだなー、と感じた。そして病院に戻る車中、
「あー、桜を見られるのもこれが最後だねー。」その一言は未だ忘れられない。
母は最期まで自分の死について、ひとカケラも口にも態度にも出さなかった。強い人だった。
唯ひと言、私に、「おまえは末っ子のせいか、子供の頃から周りが何でもやってやったから、
甘くなりそうで心配だったけどね、でも好きな将棋の世界に入ってから随分変わったねー。
それなりに苦労したんだろうね。四段になれず辛い思いをしていたことも分かっていたから、
お父さんも何ひとつ口には出さなかったけど気に留めていたよ。
でもねー、若い頃の経験は一生の財産だから大切にしないとね。そして何よりも、
荒巻先生はじめ周囲の人から育てられた事は感謝しなければいけないよ。
それと東京に戻るなど考えず、白石で一所懸命頑張るんだよ。」
結局、それが母と交わした最後になってしまった。
夏に入ってから、母は一言も言葉を発しなくなってしまった。
そして初秋の頃、優しかった母は逝ってしまった。
「後進への力添え」
当時33歳だった私にとって、母の死はこれまでの人生最たる落胆他ならなかった。
母に対する思いは、末っ子だったせいか何よりも掛けがえのないものであった。
そして人間の死というものを間近に直面したのも、母が最初の体験であった。
母がこんなに早く逝ってしまうのなら、東京を離れるべきではなかった、と後悔の念ばかりが頭に過ぎった。
振り返ると、25歳で奨励会退会。29歳で東京を離れての大転換。33歳で母の他界。何故か4年周期で予期せぬ波乱が起こる。
これも運命と片付けしまえばそれまでだが、考えようによっては、人間は大きな節目によって強くなっていくものかもしれない。
それを感じたのも確かであった。
母の死、そして白石に根をおろす腹を決めて以降、ガムシャラに仕事へ邁進する日々が続く。
既に間接部門の管理職に就いていたが、これまでの生産管理部門から、総務/経理部門、更に、
会社全般のマネージメントに関わる業務(総務・経理/生産管理/資材・購買/システム管理他)を管轄する立場となる。
こうなると1日10〜15時間の業務などザラ。もっとも民間企業での管理部署では至極当然なことでもあった。
その間、将棋に関する事は、年に4〜5回の県予選参加程度で、あえては奨励会時代の先輩にあたる黒崎昌一さんの道場(福島)や、
山形の高沢則夫さん(現在は静岡市在住)の所へ時折顔を出しては、偶然?居合わせた人達と盤を交える事はあった。
休日の殆どは、女房と仙台の博物館や歴史資料館へ興味ある展示会があれば観に行き、連休には青森、秋田の温泉や、
一時のめり込んだ「みちのくプロレス」を観にあっちこっちへ出掛けることが格好のストレス解消であった。
意外と思われるかもしれないが、東京時代の朝日アマ名人当時から、普段殆ど将棋を指すことはなかった。
もっとも、普段指すといっても機会もなかった。強いては、御徒町道場の今西さんには色々御世話になっていた関係で、
稀に顔を出した折、練習がてらにトーナメント戦で指す程度であった。まして白石に移ってからは指したくとも相手もいない。
地元白石の初・中級の人達への指導という要望もあったかもしれない。
しかし、折角の休日に気を遣う時を過ごすことへの躊躇が強かった。
そんな頃、宮城県に来て最初の「朝日アマ名人戦南東北代表戦」決勝で対戦した太田徳博君(当時宮城県高校チャンピオン)から、
「将棋を教えて下さい」と、嘆願にも近いものを受け取った。それに対し、「とりあえず遊びに来たら。」と返答をした翌週、
ふたりの子を同行して私宅へやって来た。前述したように、当時は教えるとかの関わりに余り積極的ではなかった。
しかし、3君の真摯な姿勢に打たれた訳ではないが、いずれは宮城県の後進に力添えすべきだろう、とは考えていた。
まして前向きの若者を無碍にも出来ない。結局、そんな経緯もあって、以降、彼らは塩釜、仙台から月2回ペースで
白石へやって来るようになった。当時、私も30代前半、棋力面では目下とは雲泥の充実があった。
そんな頃に接した太田君以下3人にとっては、盤上での影響感受多岐に渡ったと思う。
そして最も実力が付けられた時期であったろう。
この時期2〜3年において、特に太田君は、「東北六県大将戦優勝」、「アマ竜王戦県代表2回」はじめ、
県大会決勝進出13回(内、代表4回)という大変な実績を勝ち獲っている。先の年数から察しても分かるように、
殆どの県予選で決勝進出を果たしたことになる。但し、その肝心の決勝で9回も落としているのは、
相手がすべて私だったからである。つまり、当時の太田君の実力は、私を除けば県下では他には殆ど負けなしであった。
それにしても9度も決勝進出、あと一勝で念願の全国大会という教え子を、徹底すべて負かすのだから、
勝負とはいえヒドイ話しである。