想い出話
加部 康晴
<其の四>
「熊坂学君のこと」
選手として県内予選の大方を制するに従って、次なるステップというより、それこそが戦うべき本土俵
「全国大会」へ相当数出場した。これまで、「朝日アマ名人戦」には9年連続通算13回。
アマ名人、アマ竜王戦には12回?その他数回だったか、これだけのチャンスがありながら、
優勝1回、準優勝3回程度の実績とは、かなり情けない。もっとも、当時(30〜40代はじめ)は、
会社でもそれなりの立場となり、全国大会前日遅くまで業務に追われるのが常。
結局、最終の新幹線で東京や大阪へ出向く始末が殆どであった。
ある大会などは、仕事の責任上、土壇場でキャンセル余儀なくという事もあった。
今思うと、もう少し余裕をもって臨めたならば、結果は兎も角として、
もう少し納得したものは残せたろうと、悔やむこと多々であった。
選手以外の関わりとしては、前回にも触れた後進への力添えが、いつの間にか拡張していった。
先の太田徳博君他2名の後に、小学5年の熊坂学君が両親に連れられてやって来た。
訊くところによれば、本人は奨励会へ入りたいとのこと。私のところへ来る切っ掛けとなったのが、
県北のある大会に参加した際、大会審判のプロ棋士から、
「それなら、宮城県には加部君が居るから面倒みてもらったらどうですか。彼の将棋はプロ筋だからベストでしょう。」と、
そう言ったらしい棋士からは、何ひとつ訊いてなかったが、これも無碍に断るのも気が引け、
結局、先の3人同様、熊坂君も弟子として取り扱う経緯となった。
熊坂君は後にプロ棋士となったことは周知の通り。しかしながら、当初の印象として、才能があるとは言い難い将棋であった。
奨励会に入りたいとは言っているものの、まず入ったところで有段の域には難しいだろうと。
唯、性格が大変素直なところが、意外性を秘めているかもしれない、とは感じていた。
熊坂君はひとりっ子のわりに口数の少ないおとなしい子であった。お父さんだけを見ていると考えられない性格であり、
お母さんが極普通の感じなので納得はいった。
熊坂君は月2回ペースでひとり仙台から白石までやって来た。
奨励会という目標での鍛錬ともなれば、指導法も違ってくるもの。まして並以下の才能では尚更である。
半年くらい経った頃だったか、普段の不勉強が如実表れていることに対し、かなり厳しく叱咤したことがあった。
当時の私はまだ30代半ば前、その叱咤も半端ではなかった。もっともそれについては太田君はじめの子達へも同様であった。
熊坂君には一度だけ、「そんな姿勢なら将棋なんかさっさと辞めてしまえ!
こっちも不真面目な人間相手に貴重な時間を費やしている暇はないから。だいたい奨励会がどんなところか分かっているのか!
仮に6級で入った時点で少なくとも2、3級くらいの力がなければ話にならないものだ。その為にここへ来ているのだろう、
だったらもっと気合入れて真剣に取組め!」
小学生の子供を叱るほうも辛いものである。目に涙を溜めた熊坂君の顔は今でも忘れられない。
これを契機に熊坂君は変わっていった。そして中学2年の夏、逞しい実力が備わって奨励会へ入るに至り、
これより10年の奨励会時代のスタートを切った。
熊坂君は高校卒業まで仙台から月2回の奨励会対局に通った。普通この条件では大変が自然な見かたであったろう。
但し、東京では私からの要請を快く受けてくれた神山公男君(東京時代の弟子)の所へ前泊しての形を、
足掛け4年採らせてもらったことが大きかった。そして宮城では相変わらず月2回私と徹底盤を交え、
その間、奨励会懸案の香落、そしてプロ有段者の感覚(ここを培わなくては奨励会ではやっていけない)と
基礎力量のかなりを養えたろう。だいたい将棋の骨格は本格的に取組んでから3・4年、そして遅くとも18歳くらいで構築される。
その間の基礎基本がその後に強く太い影響を与えるもの。
反対にその間に固まってしまったら、将棋そのものの将来性はまずないだろう。
「斎藤貴臣君」
熊坂君が奨励会に入った頃、斎藤貴臣君という仙台の小学5年の子が白石まで通って来るようになった。
斎藤君はこれまで来た子のなかでも、才能は群を抜くものが垣間見られた。
小学6年の時には「小学生名人戦全国大会準優勝」は決してフロックではなく、なるべくしてなったという感じであった。
但し、斎藤君は当初より奨励会への考えは皆無であった。むろん私からも勧めるようなこともなかった。
その後、斎藤君は暫し将棋から離れたものの、大学(宮城大学)へ進んでから再燃し、東北学生大会での優勝実績を勝ち獲っている。
そして現在は、NHK BSの「囲碁将棋ジャーナル」等々の制作会社で頑張っている。
これも将棋が縁でのものだけに、本人にとっても良かったのではなかろうか。