想い出話
加部 康晴
<其の一>
「センセーショナルな出来事?」
昭和60年春、就職先の(当時は国内有数のストロボブランドメーカー)関係で、宮城県白石市の関連会社に、
当初3年の出向条件で勤務する事になった。これが東北と縁を持つ切っ掛けである。
当然慣れない環境と仕事で精一杯だったことから、むろん将棋に振り向く余裕すらなかった。
漸く1年程が経過し、心身共慣れ始めた頃を見計らって、前名人だった「朝日アマ名人戦予選」だけは参加して、
前年の雪辱へ踏み出したかった。当然予選からの参加となるわけだが、
駒を持たなかった1年のブランクに不安はあったものの、当時は私自身との棋力格差がハッキリあったせいか、
首尾よく「南東北代表」を得て全国大会のキップを獲得した。全国大会では早々散ってしまったが、
再度その他のメジャー大会も含めて、全国制覇を目指してやってみようか、強い気持ちになれたことは収穫であった。
東京時代には、朝日アマ名人戦と読売日本一戦(現在のアマ竜王戦)のみ参加是非としていた。
宮城県に移って2年目以降から、初めて「アマ名人戦予選」へ参加。
但し、東北エリアの大会であった「河北アマ棋龍戦」や「東北六県大会」への参加には躊躇があった。
それは、これまでの実績を踏まえて「全国」のみを舞台にしたい気持ちが強かったこと。
そして当時はまだ30代初めでもあり、まだ全国優勝の自信が十分あった。
そんな折、アマ名人戦の宮城県代表経験を持つAさんから、
「加部さんも河北棋龍戦や東北六県も出たらどうですか。でもねー、思っている程簡単ではありませんよ。」
それに対して、あえて謙虚に
「勿論簡単とは思っていませんよ。何しろ1日何番も勝ち上がるのは大変でしょうから。でも出るからには結果だけは出しますよ。」
内心は“貴方と一緒にされたら堪らねー(笑)”であった。
結局それが契機となり、あえて躊躇していた大会へ、一念発起で参加する気持ちになった。
こうして初参加の「河北アマ棋龍戦」で宮城県代表となり、つづく東北大会での優勝を果たすと、
その結果が主催紙の河北新報に大きく採り上げられた。流石に中央紙を上回る購読者数の地元紙だけあって、
それまで会社には、業務とは無関係の将棋に関する履歴等一切は触れなかったにも関わらず、
会社をはじめ周囲からセンセーショナルな出来事として驚かれてしまった。私としては、
前年まで4年余に渡って「朝日新聞全国版」に全国チャンピオンとして採り上げられていた経験上、
地方紙でのそれには大した感動には及ばなかった。
ところが東京では到底考えられない周囲の大袈裟とも云える反応に、むしろ困惑した。
更に、何故か?地元商工会議所からの斡旋により、白石市長さんへの表敬訪問まで促されるに至ってしまった。
なんでこの程度でこうなるの?と女房と顔を見合わせもの。