想い出話
加部 康晴
<其の二>
「信じ難い反響」
東北六県エリアの大会であった「河北棋龍戦:東北大会」優勝により主催紙の河北新報に大きく採り上げられたことで、
一躍白石では“有名人(笑)”になってしまった。翌日には同紙の「時の人」にまで載った為、益々拍車が掛かった感じである。
更に前回でも触れた、白石市長さんへの“報告”については、当初、「さすがに大袈裟過ぎますから」と丁重にお断りしたのだが、
会社の関係もあって、結局、指定された日時に市長室へ出向くに至った。
そこには市長さんと助役さん、何故か商工会議所会頭や教育委員会の偉い人?そして
高校の校長先生まで同席していたのには、思わず“ホンとかよ〜”であった。
まず助役さんより「東北大会優勝とは凄い!次は是非共、全国で優勝するつもりで頑張って下さい。」と
激励のお言葉を頂戴はしたものの、一瞬、えっ?という表情になってしまい、
「あの〜、私は昨年東京から会社の関係で白石に来たばかりなのですが、その昨年までの3年間、
朝日新聞主催のアマ名人だったもので...。」
市長さん「朝日新聞の東北大会?そりゃー大したものだ。」、
「いや、東北ではなく全国です。つまり、朝日アマ名人という全国タイトルを3期保持していました。
だから今回の事は嬉しいには変わりはありませんが、自分自身にとっては面目を保てて良かった、
という安堵のほうが強かった、が本音です。」
一同「ハァ〜」と言ったまま、互いを見合わせ暫し静止状態になってしまった。
市長訪問後も、商工会議所の下部組織「青年会議所」主催の会や、地元企業の懇話会等で、
どういうわけだか講演までするハメになってしまった。
「え〜っ、ちょっと待って下さい。これは勘違いですよ〜、そんな大それたことではないのですから...」
という間もなく進む始末。更に人を介して、白石名物の老舗温麺屋さんやホテル旅館、何故か?理容関係からも、
店に飾りたいからと、気がついたら色紙まで揮毫することに...。
もうここまで来れば、まるで冗談みたいな漫画の世界である。
尚、白石駅傍の温麺屋さんには、未だ当時の色紙が飾られている。
地方で新聞に大きく載るインパクトは想像を遥か超すものであった。
私の場合、過去において桁違いのスケールでの免疫があったので、流石に舞い上がるということはなかったが、
普通は錯覚するわなー、と思ったものだ。但し、公私でプラスになったことは確かであった。
特に会社及び関連する地元企業等からは、私への見る眼が一変していた。なかには、取引先の社長さんから、
「貴方は初めて見た時から普通じゃないと思っていましたよ。」なんて言われたりもした。
確かに普通じゃない。むろん社長さんの云わんとするところは別だが、
実際、将棋指しは凡そアタマがおかしいことを自覚している。
稀にうっかりしちゃう場合もあるようだが、それは妙なプライドが錯覚させているに過ぎない。
つまり、まともに見せようとすること自体三流の域というもの。
だいたいどんな世界でも、普通じゃー抜きん出て秀でる事は叶わないもの。
オカシさを強調自慢する必要はないが、むしろ普通じゃないことを誇りにするくらいのほうが見込みはある。
そういえばその社長さんも普通じゃなかったな〜。但し、ご自身はお気づきではなかったようでした。
「躊躇せぬ居直り」
河北棋龍戦優勝に伴う顛末はさておいて、会社の業務も生産現場から管理部門へと移るに従い、更なる意欲が湧いてきた。
何しろ初めて一般企業への足の踏み入れが、通常より7〜8年ほど後発だっただけに、
唯単に眼前の仕事を日々こなしているだけでは“指し分け”で満足しているようなもの。
将棋で喩えれば、勝ち上がって昇級していかなければ一兵卒のままだと、
その為には先々の展開を見越した知識の先取りに取組めば良い。
つまり、「先の先を読んで」まだ周囲が手を出していないことを先行習得してしまうことである。
強いてはそれが会社の為にもなり、自身のスキル&実力向上、何より大半を過ごす会社でのヤル気と仕事への楽しさに繋がる。
これは将棋が強くなるうえでの鍛錬と一緒である。
但し、それに従って地位も給与も上がるから、といった目先の興味は薄かった。
それは後述の新たな生き方への達成こそが優先であったから。
大体稼ぎのみならば、サラリーマンになる前のほうが優に3倍以上はあった。
更に、仕事に費やした時間を比較換算すれば1/4程度だったろう。つまり、会社勤め一本になって、
実入りは1/3以下に、働く時間は4倍以上となった訳である。しかも東京から地方へ。では何故?と思われよう。
その事情については遡るが、奨励会退会後のアマ棋界転身にはそれなりの切っ掛けはあった。
何よりも強かった思いは、将棋に対する不完全燃焼をどこかでぶつけたい、たとえそれがアマ棋界という土俵であっても。
まず何よりもそれを優先実践しなければ、今後の人生にも踏ん切りがつけられないと思った。
結局、元奨励会有段者だった人間が、こうした動きに走ることを世間周囲からどう思われようと構わない、
という腹の底からの躊躇せぬ居直りこそが、東京時代ラスト4年の徹底した生き様であった。
人間というものは、前途を失っての絶望が現実となった時、一時は生きる気力さえ殺がれ、崖淵にまで及ぶ。
だが、一筋でも支える自信さえ失わなければ、羞恥といったものが消え失せ、真のガムシャラになれるものだと
20代半ばで経験した土壇場の体現で身体の隅々まで沁み入った。その経験と躊躇ない行動によって、
それまでには到底培えなかった精神力と踏み込みの強さを養えたのも確か。但し、こうした生き方の限界も分かっていた。
だから最長でも4年(20代まで)と決めていた。そして奨励会という余韻の残った将棋も、この時期までに燃え尽したと思っている。
これが前述の一大転換とした所以である。
こうして一般社会人としての会社勤めを3年程経験した頃、東京時代を知る友人から、
「貴方の場合、実績とネームバリューもあったのだから、東京ならばそれを活かしそこそこやっていけたろうに。
それにしても殆ど将棋の世界しか経験していなかった人間が、よくぞ一からの会社勤めを、
しかも地方の見知らぬ土地で辛抱出来たね。」とよく言われものだが、
それもこれも、あの「躊躇せぬ居直りの4年」があったからこそだと思っている。