想い出話


加部 康晴


<最終章>



「仕事/選手 充実の頃」

30代半ばの平成3年以降あたりから10年、会社での立場上、殆どのパワーは仕事へ注ぐ時期でもあった。

従って、黒崎道場/徹夜の楽しかった時間も、月曜日からのハードな仕事への影響もあって躊躇せざるを得なくなっていく。

そんな訳で、将棋を指す機会といえば、年3〜4回の県予選 → 代表になっての全国/東北大会であったが、

この時期、大阪で開催されていた「平成最強戦」に2連続参加。初回はヒドイ将棋を勝って優勝してしまった。

翌年もベスト4という結果を残す。更に同時期、第1回として開催された「全日本選抜選手権戦:金沢」に

日本将棋連盟から推薦出場を受け、決勝に進みながら大魚を逸してしまう(優勝賞金
100+高価陶器

<後に人間国宝に指定された徳田八十吉氏作品>、そしてなんと云っても初代優勝者としての栄誉)。

同大会は準優勝ということで翌年招待出場を受け、準決勝で敗れベスト4:3位。又、

盛岡で行われた予選初参加のアマ王将戦で東北代表となり、全国大会では決勝進出(またしても決勝で敗れる。)

朝日アマ名人戦全国大会も準決勝ベスト4、アマ竜王戦・アマ名人戦はベスト8、といった戦績であった。

とにかく年齢的にも30代半ばの充実期、仕事/将棋の両面で良い結果を残せた時期だったかもしれないが、

将棋に関してはもうひと踏ん張りしたかったなー、とふっと思う。




「平成最強強戦優勝、全日本選抜戦準優勝」


そんな中、初参加して優勝した「平成最強戦:大阪」は野藤鳳優さんと一緒だったこともあり、今でも強く印象に残っている。

当時、野藤さんと顔を合わせればしょっちゅう遊んでいた。野藤流の遊びについてはあえて触れないが(笑)、

とにかく一緒に居るだけで奨励会時代を彷彿させる楽しさがあった。決勝戦は大阪の楠本誠二さんと対戦。

どうしようもない将棋を大逆転しての優勝であった。この大会は賞金が大きかっただけに、セコンドの野藤さんにとっても、

その後の遊び方が違ってくる関係で、本人以上に必死であった(笑)。私が勝って優勝を決めた瞬間、

「ホントかよー、こんなどうしようもないひどい将棋勝って。それにしてもよく勝ったなー、

楠本さんもこの将棋負けちゃーアツイよね。まあー、将棋ではよくあることだけどね。それにしてもヒドかったねー。」

一体何言ってるの?であるが、とにかく喜色満面は隠せずであった。むろんこれは私の優勝を一応は祝福しているものの、

賞金で遊べることの嬉しさがモロに出ているから笑っちゃう。

終了後の打上げには、野藤さん共々参加させてもらったが、野藤さんは適当なところで切りあげたくてウズウズしている。

「沖さん、山崎さんどうもお世話になりました。いやー、この大会は素晴らしいですね。世話役の人は大変でしょうけどね。

まあーそんなわけで、私たち帰りが遠く大変なので。それと、加部君が嬉しくて、早くどこか好い所へ行きたがっているので。

(私:ホントかよー、[しょうがないから私もちょっとだけ付き合ってやろうと思うので、それと折角、大阪に来ましたからね。

次はいつ来られるか分からないし、そんな訳でそろそろ失礼させてもらいます。あっそうだ、楠本さんそうガッカリしないで。

しかし、あの将棋はヒドかったね。まさか負けるとは思わなかったでしょう。まあー、次は大丈夫ですよ。

じやー、そういうことでお先します])と、笑いながら喋っているが支離滅裂。自分がいち早く遊びに行きたいくせに、

私を引き合いにされて参ってしまう。

一方、悄然としている楠本さんと応援期待していた大阪勢も、とりあえず意味のない慰めに苦笑するしかなかったよう。

そして打上げ会場を出たふたりは、いそいそと目当てのターゲットへと向かったことは言うまでもない。




「変節の頃」

平成に変わって10年が過ぎた頃、40代に入ってから父が入院。東京の姉達が直接の面倒はみて安心はしていたが、

むろん東京へはコンスタント往復する事態がつづく。会社では「ISO導入」等々の新規業務が加わり、

相変わらず気を抜ける間もない。こうした歳月が3年程つづき、
44歳になった春先に父が他界。

母が
10年前に他界した後、父の10年はさぞ寂しかったろう。むろん子供達もそれなりに父を労ってはきたが、

夫婦のそれとには程遠いものであったろう。
こうして両親がこの世から消えてしまうと虚しさが残るもの。

親孝行出来る頃には親はなし、である。



43歳の頃、会社では殆ど業務全般を統括する立場の総務部長に加え、生産部門の統括である

生産管理部長も兼任することになった。仕事は直間両面相対する部分もあって、極めて神経を要することが多くなった。

将棋でいえば、「難解な矢倉戦」と「慣れない振飛車戦」を二面指しで戦っているようなもの。更に社内のみならず本社、

外部との人間関係も複雑性が増してきた。管理職の仕事は、自らが直接業務に関わっては肝心の管理に及ばない。

プールの監視員が一緒になって泳いでいるようなものだ。当然ながらスタッフを如何に有効円滑に動かすことが力量。

ところが、将棋でいえば銀桂にあたる担当者クラス(課長/係長)には、それが出来ない者が多いと

“歩”の能力が発揮されない結果となる。どうも前述のパターンには、自らの仕事を保守範囲として囲ってしまう傾向が強い。

つまり、人を育てられない典型である。これは業務遂行にとっては一番の“ボトルネック”になり、

下手をすれば致命にもなりかねない側面でもある。



その頃、これまで見られなかった疲れが目立つようになってきた。そして帰途の車中、突然胸部から下に激痛が走り、

その後の症状が普通ではない予感もあって、思い切って「癌センター」で検査を受けるに至った。

そして結果は、[肝臓に癌の疑いあり]という、2センチ超の腫瘍が見つかった。更に胆嚢、胃にもかなりの異常があり、

すべてストレス性による強度の内臓障害によるものと判定された。これまで並の人間よりストレスには強い自負があっただけに

ショックであった。これまでの無理が重なり、年齢的な節目も加わり支えきれなくなったのだろう、と医師には言われた。

とにかく、病状の回復が叶うなら何とかしなくてはならない。駄目ならそれはそれで仕方がないと自ら言い利かすしかなかった。

そんな状態ではあったものの、重責ある二大部署の責任者として長期の休養は叶わなかった、というより、

そのつもりもなかった。医師からは入院を薦められたが、前述の事情でそうはいかなかった。そして、本物の「アガリクス」を、

通常の何倍も服用しての治癒に専念する。こうして肝臓の腫瘍は幸いにも悪性でないことが判明、

それにより一時の絶望感から精神的安堵に変化した。




「将棋サロン杜の都」開設経緯

思わぬ病状が分かり、これまでの、そして今後の人生観を考え直す切っ掛けとなった。


そして、益々重責が圧し掛かるであろう会社業務をつづける疑問が日々濃くなる。またそれとは別に、

こと将棋における選手としての踏ん張りも見せつけたかった。
45歳になった頃、アマ名人戦と朝日アマ名人戦の全国大会で

好調にも上位進出が叶った。
前者は準決勝進出(瀬川昌司君:棋士四段に好局を逸す。)その年は彼がアマ名人となる。

後者は決勝進出(嘉野 満君 残念ながら
15年前の挑戦復活を逸す。)こうして久々に中央紙(朝日新聞)やメディア(NHK)に

採り上げられたことにより、選手としての自信を取り戻すに至った気がした。


翌年の平成12年暮、夢とまでは言わずとも、懸案としていた「将棋サロン杜の都」を仙台駅至近の場所に開設。

当初、東京方面ではかなりの無謀と評価されたが、棋具販売店舗との共同事業とする条件が成立への断行に至った。

そして、どうせやるなら、将棋道場のイメージ一新を図り、場所、設備、システムをこれまでにないものとした。


結果的に、経費(開設半年で棋具販売店舗が撤退)に見合う来場員数が当初目論見に届かずであった。

中には、あんなやり方では駄目だ、とする評論らしきを訊いたが、それなら見本を見せて欲しい(笑)と言いたかった。

人のやったことはいくらでも評価評論は容易い。かなり前から同様を言い書きもした。

折角、個人とはいえ普及切っ掛けの礎ならんとする動きに対し、この地は足を引っ張るばかりで、

真からの協調性が大幅に不足していることを実感した。結局、テナント4年半での収支決算は多大なる損失となってしまったが、

多くの小中学生が育った事、そして一般の増進とレベルアップの充実が果たせたことは、

杜の都道場としての自負として良いと思いたい。

そして2003年度の「全国道場対抗戦優勝」は、今考えても快挙であった。おそらく他県であったなら、

大変な影響とクローズアップに価したことだろう。ところが将棋界に限らず、あらゆる業界等においても、

この地はこうしたものに対するクローズが足りない。あの荒川静香さんが金メダルを獲った途端に大騒ぎはしたものの、

そうでなければ殆ど関係なかったろう。それが証左にオリンピック出場決定時点では、全くといって良いほど

クローズすらなかった。
つまり、個人の思いは個人が勝手にやっている事という感覚が強く、

こういった土地ではまさに“猫に小判”であったこと、それをうっかりしたことが敗因であった。

もっとも、一度はやってみないと分からないもの。こうした経験を踏まえる事により、

目下、そして今後の傾向も読めるようになれるものだ。




「今後のこと

テナント展開は前年半ばで終焉させ、目下の形態で継続させたことは正解であった。

これまで特に、杜の都道場出身の若年層がレベル層共に随分育ったはずだ。これは前述にも触れた通り、

杜の都道場の存在なければ成り立たなかった構図。それについては今後も少なからず、誰かしらというよりも、

そういった環境の継承を施さなければ根絶えてしまうだろう。それをこれまで永年に渡って世話役として頑張ってくれた先輩に

ごり押しするのは酷というもの。つまりは、こうした動きなりは、その下の年代が真摯に取組むべき姿勢こそ自然であろう。

しかしながら、具体的には容易くはない。そしてもっとハッキリ言えば、それだけの力量、持続性の気概がある人材が薄い。

それは後進を育てなかった意味もある。なんせ将棋は選手として指していることが一番楽といえば楽なのだから。

但し、これとて相応なる実績を末永く継続させることは容易ではない。私自身、近頃選手としての衰えを

自覚するようになってきた。先般も今年初めての県予選(アマ竜王戦)に参加したものの、

目下、充実の平泉丈志君に見事負かされた。但し、これは決して傲慢を醸し出す訳ではないが、

盤上技量と勝負の経験価においては、まだ々凌駕の域の半分にも届いていない。もっとも、これくらいの気概なければ

リタイアしなければならないが、将棋はそれなり表面的な拵えが見えると、上位との距離が見えてくるような錯覚に陥る。

ところがそんなに薄っぺらなものじゃない、ということは、その上のレベルと多く触れることにより理解叶うもの。

但し、平泉君の将棋はもうかなり以前より、相応な域へ達するものが見受けられていた。おそらく彼も年齢的に

今後何年かが大きな実績を残すべく正念場となるだろう。個人的には大いに期待したい人材である。


私自身の選手としての目標は、まず、いつまでやるかである。まだ結果の出せる自信のあるうちはと思っている。

ところが最近はつまらない見落としが多くなってきた。これが年齢からくるものならば仕方がないものの、

単なる実戦不足(ここ最近盤に相対しての刺激は減った、というより意欲が減退したのは確か。)ならば改善の余地はある。


野藤さんに訊いてもあまり意味はなさそうだが(笑)、昨年の東北六県で会った際、そのあたりの話をしたら、

「将棋はさ、年々弱くなっていくのが普通だよ。だいたい強さを維持したってしょうがないだろうと思うよ。

俺なんかもう駄目だからね。だから将棋はどうでもいいんだよ。ところでこの間さ、山田敦幹アマ名人だっけ?

アマ王将か?が秋田に来てさ、やったよ。そしてシッカリ勝ったけどね。やっぱり本腰入れればまだ々(笑)、

そんなに甘くないからね。」一体どっち?(笑)相変わらず支離滅裂だが、本音は

「本気でここ一番ならまだ々簡単には負かされない。」ではなかろうか。



私も野藤流の境地に達し、末永く将棋と接してゆきたいと思っている。

了:


其の一 「センセーショナルな出来事」
其の二 「信じ難い反響」「躊躇せぬ居直り」
其の三 「母のこと」「後進への力添え」
其の四 「熊坂学君のこと」「斎藤貴臣君」
其の五 「黒崎昌一さんのこと」
其の六 「面白かった頃」
其の七 「会費制リーグ戦 当時の実戦譜」
其の八 「続:戦い模様」
其の九 「かなり昔に遡って」


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